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2021/03/03

今更「電気代8万円、ぎゃー」なんて言われても

  Yahoo!ニュースから『「電気代8万円、ぎゃー」利用者衝撃 新電力料金急騰、想定外 背景にLNG不足』。当人にとっては「ぎゃー」なのだろうが、初めっからそうならない電力供給元を積極的に選択している人間もいる訳で、自業自得とまでは思わないけれども「当たり前やん」としか思えないのが実態だ。その辺りは記事からは分からないけれど、それでも現在の電力供給会社契約後の合計で見れば得している可能性だってあるだろう。

 この冬米国では3000%とか、8000%といった電力料金の高騰も経験していて、それに比べればまだマシだ。慌てて経産省が上限価格を設定したらしいとのことだが、それは監督官庁が率先して制度破壊することになるのでとても不味い。 それをやるなら、まず総理大臣なりの口から「我が国は独自の社会主義体制を採ります」または「日本の送電力網は、ロシアのシベリア・極東送電力網同様に自由経済制度からは切り離します」とか明言してからにしていただかないと筋が通らない。誰か知らないが「制度設計の不備ガー」とかコメント欄に書かれても、こっちは読んでて頭が痛くなるだけだ。

 「上限価格の設定」はこれすなわち「適正価格が設定値より高くてもその価格を適用できない」ということであり、売電会社の利益構造の根本を揺るがす。売電会社が打てる手は非常時に赤字となることを想定して通常時の価格に赤字分を薄く乗せる(つまり値上げ≒会社の存在意義の喪失)ぐらいしかなく、更に現在の米国政権が少なくとも4年続くことを念頭に置くと、私には黒字のうちに事業を畳むのが正解としか見えない。まぁ後は、売電業者の判断または契約者が事前に設定した条件を満たすと受電が停止されるような機器でもコスト増覚悟で用意することだろうか。株取引のサーキットブレーカーのように、電気価格が一定値を超えるなどの特定の条件を満たすと自動的に受電を止めるって感じだ。少なくとも「ぎゃー」は避けられるが、冷蔵庫の中身はゴミとなろう。つまり、全く現実的ではない。

 漠然とではあったがかつては国民内に遍く存在した「日本型社会主義」や「日本型共産主義」とでも呼ぶべきコンセンサスは既に「コンセンサスとは呼べないレベル」となって久しい。つまり「基本はお互い様。皆で損をするのは仕方ない、同様に得するときは皆で得をしましょう」って考え方はどんどん薄くなってきているってことだ。自由主義でも新自由主義でも構わない、その種の考えとは絶対両立できない考え方、と言うより感性と言った方が良いようなものだ。

 上記の伝統的コンセンサスは、多くの社会的リスクを見えなくしたり実質的に無くしてくれていた。「価格が安い電気を使う」ことは上記の伝統的コンセンサスによる庇護を捨てることで可能とできる訳で、進んでリスクを取ること以外の何ものでもない。「ぎゃー」はリスクの顕在化の結果に過ぎず、それ以上でも以下でもない。当人の選択の当然の結果なのである。少なくとも契約する前に、契約先の資本構成とか経営形態とか経営者の国籍とかは調べないとね。まぁ、公開されている情報は限られているし、恐らく不正確なものも多い。私の感覚だと、この種の状況が曖昧であること自体が契約をためらうに十分なリスクとなる。

 ちなみにロシアには、価格が自由な送電力網と、その種の経済原理を導入すると事業者が居なくなるか価格がめちゃくちゃ高くなるかのどちらかが避けられないので国が価格を決める赤字必至の送電力網とが意図的に分離された形で存在する。

 さて、

 これまで少なくとも4つの新電力会社から戸口でオファーを受けたが、端的に言ってセールスパースンがなっていない。実はその種のセールスに対してはもうこちらから質問する。

 「安くなる理由を教えてください」

大抵のセールスパースンはこの点をまずちゃんと説明できない。酷い場合は嘘をつくか、恐らくマニュアル通りの(誤った)説明をする。少なくとも自前の発電設備を持たない会社が売電で安定して利益が出せる筈が無い。発電設備を持っていても、発電規模が小さかったり発電方法の種類が限られている場合は価格変動にかけられるヘッジ量も限られる。

 すいませんね、文献や報道ベースではあるけどもこっちは送発電分離や電力自由化について自ら調査し、その後も状況をトレースし続けてるんですよ、米国も欧州もロシアもね。あ、1社だけスマートメータのデータの一元管理による人件費圧縮を理由に挙げてたけど、利が薄いところにきて、更に突っ込んで聞いてみると派遣社員を使ってやっているとのことなので「あ、ダメだ」と思いましたよ。「誰も遊ばせていないので、緊急時に対応する人はいません。技術的な知識のある人はいません。人件費は中抜きされてます。」ではねぇ。

 そんな感じなので、今更「ぎゃー」って言われてもねってやっぱりなる。そんなこと、もう7年以上前から何時か起こることは分かってたことなので。

 「じゃぁ、どんな売電会社だったら契約するの?」と聞かれたらどう答えようか。サウード家かUAEの王族が経営する会社だったら契約するかもね。あと技術的視点から言えば、蓄電技術の大幅な進歩でも無いとゲームチェンジは無さそうに思う。

2015/11/22

勉強をしない人

 「この人はスゲエ!」と思ってしまう相手と言うのは、概して「頭の回転が速い+現状を把握しているという意味で良く勉強している」ものだ。これに更に何を加えるか、例えば「歴史的なものも含み経緯を把握している」「主張に具体性がある」といったもの、は対象による。より正確には、加えるべきものは無数にあるが「優先度は対象に依存する」だ。

 対して議論をやるうえでやっかいな相手(議論が成立しない相手)と言うのは、概して「頭の回転が速い+過去の情報や権威ある人間の主張についての知識はあるが現状は把握していない、と言う意味での勉強をしていない」タイプだ。少なくとも「現状の共有」が前提の議論の相手とすること自体に意味が無い。

 以前のエントリで何度か触れたが、某元官僚氏は本当に勉強をしていない人だった。いや、今でも勉強していない様が手に取るように分かる。空疎空論と呼べば褒めたことになりかねない、とてつもない、なんつーか、まぁ、アレだ、アレ。危機感が無いのは「それが危機となり得ない」からかも知れないし、「危機管理の結果」なのかも知れない・・・そういう視点を払拭できない限り、幾ら数字を論っても説得力が出る訳もない。

 件の元官僚氏は、かつて電力自由化、発送電分離絡みでTVに良く出ていた。ただ、話す内容が「10年前の議論じゃねーか!」「ドイツやロシアやカリフォルニア州の現状を知らねーのか!」「歴史的経緯に基づく日本型送発電システムの特殊性をなぜ無視するのか?」「ドイツと日本の全体的な総体としての国民性の違いや、政治システムの違いをなぜ無視するのか?」などなど、とにかく現状認識の欠如、未考慮因子の多さは目に余るものだった。なお、私個人の思いの一部は過去エントリで述べているが、「とにかく現状認識が違う」から私の思いと某元官僚氏の主張とは相容れない、と言うか「ともに異なるパラレルワールドに対する言及」と言うのがより正確だ。

 職業柄、エネルギー関連の情報(主にネット上の記事や情報サイト)は高頻度でチェックしてい、とにかく形だけでも「現状把握」には努めているつもりだ。ただし少なくとも英語は読めなきゃならない。これは大部分の日本語記事が海外記事の「一部」を引用するだけだったり、そもそも日本語記事になっている情報が少なすぎるためだ。だが、探し続けていれば日本語の興味深い記事にも出会える。

 日本原子力学会では「立ち読み」と呼ぶ学会誌コンテンツの一部無料公開が行われている。小野章昌氏の「ドイツの2050年再エネ80~90%は可能か?」ではここ4~5年のドイツの状況が上手く紹介されている。紹介されている内容は私が追っかけている海外の公開情報との矛盾が全く無く、現状把握には良質の読み物かと思う。竹内純子氏の「悩めるドイツ-脱原発を『道徳的に』考える」は短いが、タイトル通りの「道徳的に」と言う切り口はそうそう出会えないものだ。ともに議論の出発点、或いは出発点とすべき共有情報へのリンクを提示するものと言えると思う。

2014/06/13

発送電分離先進国、英国と独国の話

 World Nuclear Newsの記事、"Energy market 'does not value low carbon'"から。

 英国は発電会社と送電会社が分離されている。記事では送電業者のNational GridのCEOの発言を紹介している。曰く、
the energy market today does not value low carbon, and it is crystal clear that very few markets place a true value on security of supply.
ざっくり訳すと、
今日のエネルギー市場は低炭素(排出)に価値を見出していない、エネルギー安全保障に価値を見出す市場も明らかにまれだ。
って感じかな。

 発送電分離して市場メカニズムに電力供給を委ねた結果、市場は地球温暖化(気候変動)対策やエネルギー安全保障に頓着しない状態にあるということだ。安い電気、でもいつ何時停電するか分からない、という状態にどんどん向かっているという認識なのだろう。欧州各国政府や国民は日本に較べれば地球温暖化に対して感受性は高いのだが、市場原理に委ねてしまうとそれでも価格第一にならざるを得ないようだ。

  「エネルギー安全保障」は国防、経済の競争力維持ともに関わる重要マターだ。

 独国は太陽光発電などの再生可能エネルギーを優遇することで電力の市場メカニズムに介入したが、大企業は安い化石燃料を用いた自家発電設備の所有に舵を切った。つまり、電力市場では地球温暖化(気候変動)対策へのインセンティブが有効に働かず、買い手市場の傾向を強めながらも電力価格が高止まる方向に進んでいるということだ。結果、企業は安い電力を求めてなおさら自家発電設備を所有することになり、こと地球温暖化ガス排出に関しては文字通り負の連鎖の様相を呈しつつある。しわ寄せは一般消費者に向かう。再生可能エネルギーの優遇措置のための税金を払いつつ、高い電力を買わざるを得ないからだ。企業も良いことばかりではなく、安さを優先すると露国からの化石燃料への依存性を高めざるを得ない。ウクライナに対する西欧諸国の対応の温度差の背景にエネルギー安全保障があることは明らかだ。

 英国がどこに向かうのかはまだはっきり見えない。日本はなおさら見えない。

2014/06/11

電力事業法改訂ですか。

 小売全面自由化。個人的には全く評価しない。

 私なら電力当たりの地球温暖化ガス排出量ができるだけ少ない会社を選びます。故に、現時点では太陽光発電はあり得ない。その種の情報をちゃんと出してくれないと困るんだけどほとんど出さないだろうね。中国製太陽電池とか製造時に炭酸ガス排出し過ぎ。

 安定供給義務は残すってのも虫が良すぎ。電力価格が下がる理由が無い。これまでの日本の地域分割アプローチは、欧州ではけっこう評価する向きもあるんだけどねぇ。

 価格を追求するあまり不純物の多い(概して放射性物質を多量に含む)化石燃料を使用なんてことになったら目も当てられない。ちなみに北朝鮮の石炭は良質、と言われているようですよ。

 関連エントリ。

 「発送電分離」について思うこと(その1)
 「発送電分離」について思うこと(その2)
 「発送電分離」について思うこと(その3)
 ドイツのチャレンジとウクライナ

2013/08/25

「発送電分離」について思うこと(その3)

 「消費者にとって良質な電力」とはどういうものか。

 まず商工業の観点から考える。「安価であること」はもちろん必要だろう。加えて重要なのは「安定して供給される」ことではないだろうか。しょっちゅう停電することが分かっている地域に何らかの製造工場を建てようなどというのは賢明な考えとは言えない。また、証券取引など電子化の進んでいる分野も多い。従って、発展途上国では、安定した電力供給が商工業の発展に先行する必要がある。

 日本や米国といった既にグリッド網が整備されている地域においては、電力が「安定して供給される」ということは、「停電が起きない」或いは「停電が起きても短時間で復旧する」ことに対応するだろう。日本の「既存の電力事業者」は電力の安定供給に関して高い実績を持ち、今日に至る経済発展に重要な役割を果たしてきたのは明らかだ。そして、電力が「安価である」こと及び「安定して供給される」ことは、一般家庭においても「良質な電力」と言えると思う。

 問題は、「安価な電力」と「電力の安定供給」は実際のところ独立ではないことだ。

 まず、「安価な電力」について。

 「発送電分離」が言われるのは、電力料金に対して価格競争メカニズムがないがために「電気料金が高止まり」しているのではないか、という考えが前提にある。少なくと「電力自由化」以前の日本においては価格競争メカニズムは全く無かった。しかし、その時代にあっても、「万人に対して電力料金が高止まりしていた」と考えることには抵抗がある。「既存の電力事業者」は担当地域で独占を許されていたものの、担当地域内では同質の電力を消費者に供給しなければならなかった。極端な話、たった一軒の民家のために数kmの送電線を敷設しても、その民家の電気料金が特別に高く設定されることはなかった。ここには一種の「平等感」がある。

 「平等」とは結構難しい概念で、「同じということとは異なる」というのが持論だ。

 卑近な例を出そう。私がとある組織に出向していた際、70人規模の所属する部署のPC更新があった。私はPCに詳しいとされていたため、更新PCの選定を上司から頼まれた。業者からの更新PC案はスタンダードグレードのPCを70台というものであった。しかしながら、その部署のうち20人程はいわゆる管理部門に、残りの50人程は開発部門にそれぞれ属していた。管理部門のPC利用はほぼ文書作成に限られる一方、開発部門では自作の解析プログラムも動かすこともあった。そこで管理部門の人間にはエントリグレードのPCを、開発部門の人間にはハイグレードのPCをそれぞれ予算枠内で選定し、PC更新案を起草した。この案に対して管理部門の一部から不満の声が挙がった。PCのグレードが違うことが「平等ではない」というのである。はたしてこれは本当に「平等ではなかった」のだろうか。結局、私の起草案がそのまま採用されることになった。理由は「総予算は妥当、グレード選択も合理的と判断」されたからである。「同じではないこと」を「平等ではない」と等価と考えることは本質的におかしい。が、少なくとも日本においては「同じではないこと」を「平等ではない」と見做す文化が歴然とある。

 日本の何処に住んでいようと「良質な電力」が供給されるという状況は、「平等」=「同じ」という「平等感」に馴染むものである。だが、グリッドの内部から10mの送電線で繋がる家庭と、グリッドの外縁から更に数kmの専用の送電線で繋がる家庭で電気料金が変わらないというのは本来の意味での「平等」とは思えない。

 「電力自由化」の完全な延長として「発送電分離」を実施した場合、つまり送電事業者にも競争原理を完全に導入すると、経済原則の前には「平等」=「同じ」という「平等感」なんかが立ち入る隙間なんてない。通り一本隔てただけで電気料金が違い、かつそれにはちゃんと理由があるのが実態なのだ。「発送電分離」をしつつ、「平等」=「同じ」という「平等感」を維持するためには、「送電事業者」に義務という形で規制をかけざるを得ないというのが個人的な考えだ。しかし「平等感」の維持にはコストがかかるため「送電料金は高止ま」り、電気料金の低下は限定的となる。逆に完全な競争原理に基づく「発送電分離」が実施されれば、「電気が来るだけマシ」という地域すら生み出しかねないように思う。

 「郵政民営化」の顛末を見ればあながち極端なシナリオとも思えない。「ユニバーサルサービスの維持」は半分本当、残り半分は無意識下での「平等」=「同じ」という「平等感」に基づくものというのが個人的な心象だ。「発送電分離」を実施しても、日本では「送電事業者」に電気料金の低下幅を限定することになる一定の規制を導入せざるを得ないだろう。それが「郵政民営化」の顛末からの教訓ではないかと思う。

 「電力の安定供給」についてはどうか。

 米国で面白い統計がある。カリフォルニア州の「発送電分離」前後の「停電の発生頻度」と「停電からの復旧に要する時間」の変化である。「発送電分離」後、「停電の発生頻度」は増加し、「停電からの復旧に要する時間」は伸びている。「停電からの復旧に要する時間」については、3倍程度という数字や、地域によっては1時間が1日半になったという酷い数字もある。主要な理由は「発電異業者」と「送電事業者」との連携が実質的に取れないことと、分離後の事業者が小規模になったことにある。

 「発送電」全体にわたって市場競争原理を徹底して導入しようとすれば、「発電事業者」と「送電事業者」を完全な別会社とする必要がある。「送電会社」が特定の「発電事業者」と一定以上の資本関係があれば、それは利益を最大とすべく「一体として振る舞う」が故に競争原理が働かない。が、「一体として振る舞う」ことができないが故に、停電の頻度は増え、停電からの復旧に時間がかかることは自然な流れだ。

 「送電事業者」は停電の発生を回避すべく、つまりグリッドを安定化させるべく、グリッド内電力の需要と供給のバランスを常に監視している。ところが、電力需要と供給のバランスが崩れそうになっても、特に供給不足が懸念される事態となっても、自前の「発電設備」を持たない「送電事業者」に打てる手は限られている。時間があれば「電力事業者」から購入する電力量を増やせば良いが、時間が無い場合や電力の購入先が確保できない場合には、「グリッドの一部(サブグリッド)への電力供給を断ち」、限定的な停電を起こすしかない。これをしなければ「グリッド全体がコラプスしかねない」からだ。かくして停電の頻度は増える。

 ところが事態はこれで済まない場合もある。サブグリッドへの送電停止に伴う電力消費量の減少が電力供給不足量を大きく上回ると、グリッド全体としては電力の供給過剰となり、「発電設備」と接続されたサブグリッドがコラプスする可能性が出てくる。サブグリッドのコラプスが発生した場合、そのサブグリッドに接続された「発電設備」は送電先の消失(負荷遮断という)との異常を検知して緊急停止する。異常に基づく停止だから「発電設備」の検査が必要となり、「発電設備」はすぐには復旧できない。最悪のシナリオは、このサブグリッドのコラプスが引き起こした電力の供給不足を引き金として次々とサブグリッドがコラプス、「発電設備」も次々と緊急停止することである。かくして、グリッド全体がコラプスし、停電からの復旧には時間を要することとなる。「発電事業者」、「送電事業者」ともに小規模だと、復旧にかけられる人数もどうしても限られてしまう。

 このような大規模停電の発生メカニズムを考えると、これまで日本で同様の停電が発生してこなかった理由は明確だ。「発電事業者兼送電事業者」であれば、グリッド内の電力需給量を監視しながら、適宜「発電設備」の起動、停止、出力変更が可能だからである。

 カリフォルニア州の「発送電分離」は、電力料金への市場原理の導入との観点からは徹底している。事業者間の資本関係は厳密に制限され、事業者の独立性を確保しているからだ。同様のシステムが日本の「発送電分離」に導入された場合、電力消費者である我々は「安価な電力」を享受できるが、頻度の増えた停電と停電復旧までの時間の長尺化を受け入れなければならない。家庭には蓄電システム、企業には自家発電設備が必須となるだろう。酷い言い回しは承知だが、「(蓄電システムも買えない)貧乏人は電気を使うな。」という心情的には受け入れ難い(これまでの近代日本では選択してこなかった)時代の到来である。酷暑下で大規模コラプスが発生(電力需要が増え、コラプスは発生し易い条件だ)すれば、それこそ人命に関わる事態だ。現在の日本の社会インフラ整備状況では上下水道は止まり、信号の停止で流通は滞り、救急車は目的地にたどり着けない。

 「発送電分離」に先だって、具体性に欠ける「国土強靭化」よりも社会インフラの非常時対策を全国「平等」にやってくれと声を大にして言いたいよ。

 欧州では国営の「独占的な発電事業者兼送電事業者」もあり、「発送電分離」を含む電力インフラの有るべき姿の議論は続いている。カリフォルニア州の状況も横目に見ているせいか、色々な書類を読むに電力料金への市場競争メカニズム導入は限定的とすべきとのトーンが強い。また、「独占的な発電事業者兼送電事業者」の解体は避けられない(フランスはちょっと違うが)としても「まず『地域分割』から」という声も多い。これは「送電事業者」と「発電事業者」との連携不足を恐れてのことと思われる。同じ理由から、「発送電分離」を実施するにしても、むしろ「発電事業者」と「送電事業者」との資本関係を一定の制限下で残すなどして両者が連携を維持し易い体制とすべきと主張する人もいる。

 「発送電分離」はキーワードとして出てきているものの、分離後の形態をどうすべきかという議論は全く聞こえてこない。「発送電分離」を主張する人達の頭にある分離後の日本社会とはどういうものなのだろうか。それを説明せずして「発送電分離」を主張する人の神経は、私の理解をどうしようなく超えている。

 個人的には、現在の日本の電力会社のシステムが悪いものとは思わない。むしろ、「弱者」を極力生まないという点は評価に値するとすら思っている。ただし、「今までそうだったからそのままで良いじゃないの」ということではなく、「『発送電分離』まで含めた検討の結果、これこれはああするものの基本的に現行のシステムを将来的にも選択する」といった具合に陽的に選択することが理想だ。

 「発送電分離」に舵を切る場合も同様、「他国がそうやっているから」なんてバカなことを言いながらやっちゃダメだ。制度によっては「弱者」を生み出しうること、停電などに対して自衛が必要となることにも触れなきゃダメだ。家庭の余った太陽光発電電力の定額買い取り制との馴染みが悪いことも触れなきゃダメだ。

 「スマートグリッド」にすれば良いじゃん、という主張は本質的には正しい。でも、停電を起こしても何らの補償義務がなければ、グリッドのスマート化に投資して停電の発生頻度を下げる場合よりも電気料金は安いんじゃないかなぁ。それが自由化の一面ってもんだろう、ねぇ。

2013/08/24

「発送電分離」について思うこと(その2)

 さて、「発送電分離」に立ち入る前に、「電力自由化」に関して私お得意の思考実験に入ろう。

 「電力自由化」によって「新たな発電事業者」が現れ、「受電者」たる「消費者」は「発電事業者」を選ぶことができるようになる。この結果、「発電事業者」間に価格競争という市場原理が働き、「消費者」にとっての電気料金は全体として下がる筈である。当たり前の話のように聞こえるが、「新たな発電事業者」は「送電設備(グリッド)」を所有していない点に注意が必要だ。「新たな発電事業者」と「既存の発電事業者」との理想的な価格競争には、「送電コスト」が全ての発電事業者にとって同じでなければならない。ところが、日本の「既存の電力事業者」は「発電事業者兼送電事業者」なのである。

 「新たな発電事業者」の電気料金はざっくり、「発電コスト」+「グリッド使用料(送電コスト)」+「利益」となる。同様に、「発電事業者兼送電事業者」の電気料金は、「発電コスト」+「グリッド維持コスト(送電コスト)」+「利益」となる。お分かりの通り、両者の「送電コスト」は質が違う。素直に考えれば、「グリッド使用料」=「グリッド維持コスト」+「利益」だから、「発電コスト」が同じだと、「新たな発電事業者」には勝ち目がない。しかし、「新たな発電事業者」は「発電コスト」において「既存の電力事業者」に対して競争力を持つ。それは何故か?

 「既存の電力事業者」は担当地域内の全電力消費をまかなう義務を負っている。そのため、ピーク時の電力消費量をもカバーできる必要から所有する「発電設備」が過剰気味なのだ。つまり電力消費量のピーク時以外は運転しない「発電設備」も所有し、これら設備の税金やメンテナンス費用といったコストを「発電コスト」で回収しているのである。対して、「新たな発電事業者」は「消費者」との契約を履行するに必要な「発電設備」のみを所有すれば良い。

 「既存の電力事業者」の肩を持つ気はないけれども、これは健全な競争環境とは言えない。

 この不公正をの解決には、①「既存の電力事業者」の発電量に対する義務の撤廃、②「発電事業者兼送電事業者」の「グリッド使用料」の決定の完全自由化、が考えられる。が、①は採算が合わなければ送電されない地域が生じても良いことになる(ユニバーサルサービス体制の崩壊)し、②は「発電事業者兼送電事業者」の電力市場独占を許容することなる。①は、例えば都市規模の中小地方電力会社が立ち上がれば許容できることにはなるが、電力料金の低下は期待できない。②は独占禁止法とかに引っかかってしまうだろう。

 極論、①と②の合わせ技で一番儲かる事業形態の一例は、電力大量消費地や工場などの大量消費設備のみを結ぶグリッドを所有し、送電する電気自体は「新たな発電事業者」達を徹底的に競争させて安価に調達するとともに、補助金などの優遇措置がある期間のみ再生可能エネルギ―発電設備を所有するというものだ。

 しかしこれは余りにエグい。現行の「電力自由化」は実態は「発電事業への参入自由化」でしかない。独自の「グリッド(送電網)」構築も制度上は可能だが、土地取得や建設コストが大きいことや既存「グリッド」と並行に新規「グリッド」を設けるなんて効率が悪いことも甚だしい。

 ここで「発送電分離」という考えの見通しが多少良くなってくる。

 「発電事業者兼送電事業者」は自前の「発電事業」の競争力を「送電事業」も利用して確保しようとする。だから、「送電事業」を分離すれば、「発電事業」の健全な価格競争が期待できる。電力消費があるならば、市場原理に従って「発電事業者」が現れることは期待して良い。他方、送電はユニバーサルサービスの根幹だから、地域独占を許容(発電設備と違って送電設備はその地域になければならいことを思い出そう)し、かつ、採算が取れない地域については公共サービスとして自治体が補助金などの優遇措置を行ってでもグリッドを維持しようということである。

 いよいよ次回は「発送電分離」に踏み込もう。この制度が薔薇色の未来を約束するかどうか、或いはどういう形態が「より理想的」なのかについて触れるつもりだ。キーワードは「消費者にとって良質の電力」とは何か、って辺りかな?

2013/08/22

「発送電分離」について思うこと(その1)

 歴史をひも解くと、日本の電力会社は多数の「民間地域電力会社」の設立からスタートした。これは特定の地域内の電力供給を特定の民間会社一社が担うという形態であり、米国などとほぼ同様で日本特有という訳ではない。対比できる別形態としては「国営電力会社」による独占的な国内電力供給がある。

 日本国内の電力の周波数が50Hzと60Hzの2種類ある理由は、東西の先行した「民間地域電力会社」が米国の別の会社から発電機を導入したことに遠因がある。東は「GE(ざっくり言うとエジソンの会社)」から、西は「ウェスチングハウス(ざっくり言うとテスラの会社)」からそれぞれ発電機を導入し、この時点で電力周波数が違っていたのだ。いずれにしても、日本の電力供給体制はまず民間主導で確立されたと言って良い。ただし、この時点での各電力会社の担当地域は現在の電力会社の担当地域とは必ずしも一致しない。現在の各電力会社の担当地域は、太平洋戦争中の単一電力会社への統合と戦後の解体(分割)の結果である。

 ここでひとつ重要なことは、解体後の各電力会社には電力の地域独占が許されていたことである。裏返しとして、電力料金は国の認可制とされ、担当地域内あまねくへの電力供給義務も負う。日本の良質な電力インフラ、別の言い方をすると(一部離島を除けば)日本中の何処に居てもほぼ同等の価格で必要な電力が利用できる環境は、地域独占と引き換えに電力会社に課せられた制限、義務に負うところが大きいと思う。

 さて、

 地域電力会社は「発電」と「送電」を一括して担うため、「発電設備」、「変電設備」、「グリッド(送電網)」及び「グリッドから受電者(工場や家屋)への送電線」を所有、管理する必要がある(少し厳密さを加えると、「変電設備」の一部と「グリッド」及び「グリッドから受電者への送電線」は担当地域内に必須だが、「発電設備」や「変電設備」の他の部分は必ずしも担当地域内にある必要はない)。以下では簡単化のために「発電設備」と「グリッド」の用語のみ用いるが、それぞれに付随する「変電設備」や「送電線」も含むものとして捉えて頂きたい。

 まず、既に制度としてはスタートしている「電力自由化」について触れる。「電力自由化」の基本的な考え方は、「既存電力会社の電力供給の地域独占の撤廃」である。新規参入会社は「発電設備」を持つ必要があるが、当然ながら以下の状況が現れ得る。
  • 受電者の居住域に発電設備がある。
  • 受電者の居住域とは異なる地域に発電設備がある。
米国は多数の「グリッド」が相互に連結された「グリッド網」を形成しているが、各発電設備が接続された「グリッド」への送電量は大部分の地域で「電力卸売市場」での取引に基づいている。つまり、高い電気料金でしか入札できない発電設備からの電力は「グリッド」へ送電できない。ただし、特定の「グリッド」に着目すると、それに直接接続された発電設備からよりも「隣接するグリッド」から安価な電力が供給できる場合は、「グリッド」がある地域内の発電設備から一切送電させないという選択肢もある。

 米国では具体的には後述する「発送電分離」が進んでいるため、「グリッドを所有する送電者」から見た電力価格は「市場原理に基づく時価」であり、「グリッドを所有する送電者」の利益は基本的に「電力の調達価格を如何に下げるか」に負うところが大きい。「グリッドを所有する送電者」は「受電者」に概して定価で電力を供給しているからだ。「グリッドを所有する送電者」は、常に需要を満たす最小限の送電量をできるだけ安価に所有する「グリッド」に供給する努力をすることになる。米国ではざっくり「送電者」が強く、他の「グリッド」に接続されていたならば十分競争力がある「発電設備」でも同じ「グリッド」に接続された「競合発電設備」との価格競争に敗れればあっさり閉鎖される。安価な「シェールガス」の発電利用が本格化した昨今、老朽化した発電設備の閉鎖は加速する傾向にある。勢い、発電用資源の均質化と総発電可能量の低下は避けられない。結果、米国では電力供給不足発生のリスクが従来よりも大きくなっているのは確実だ。

 一方、ドイツ(厳密にはグリッドが十分に整備されている旧西ドイツ域)では状況が異なる。「受電者」は居住地に関わらず「発電者」を選んで契約することができる。良くある例が、風力や太陽光などの再生可能エネルギーのみで発電している「発電者」との契約である。「発電者」は「受電者」との契約に基づいて電力を「グリッド」に送電することになるが、再生可能エネルギーの発電量は天気次第なところがあるため、概して「グリッド」には「受電者」との契約量よりも大きな電力量が常に供給され(契約量よりも小さいことは基本的にあり得ない)、かつ変動する。「受電者」はあくまで「グリッド」から受電し、かつ「グリッド」には火力などの他の発電設備からの電力も供給されている訳だから、「私は再生可能エネルギーしか使ってません」という「受電者」の思いは現時点では文字通り気持ちの問題でしかない。とは言え、「受電者」の行動が発電方式のシェアに影響することは確かだ。

 ご存じの通り、ドイツは太陽光発電を中心に再生可能エネルギーによる発電量が大きい。再生可能エネルギーの増大自体は良いのだが、「グリッドを所有する送電者」から見た場合、「グリッド」への供給電力量の時間変動はかなりやっかいな問題だ。「グリッド」への電力の供給過剰は「グリッドのコラプス(機能停止、つまり域内一斉停電)」の原因と成り得る。欧州では電力は輸出入の対象であり、ポルトガルから東欧までほぼ単一の「グリッド網」が既に形成されている。特定の大規模な単一「グリッド」のコラプスは、「グリッド網」内の他の「グリッド」のコラプスを引き起こしかねない。これは、コラプスした「グリッド」の少なくとも一部の電力が他の「グリッド」に一気に流れ込み得るからだ。

 欧州での大規模な「グリッド」のコラプスは幸いにしてまだ発生していないが、ドイツの「グリッド」が再生可能エネルギー発電設備からの電力供給の急増に直面し、コラプスを避けるために東欧側の「グリッド網」に余剰電力を急遽送電したことがあったという。「タダで電気が貰えて東欧は大喜び」などと考えることなかれ。東欧の単一「グリッド」の規模はドイツの「グリット」と較べれば小規模、小容量であるため、ドイツからの制御されていない送電は東欧各国の「グリッド」をコラプスさせかねないのだ。送電を受けた東欧数国からは苦言も呈されており(「テロだ」とすら言う人もいる)、また、ドイツ発、東欧経由の全欧州「グリッド網」の連鎖コラプスを警戒する声も挙がっている。

 とまぁ、米国やドイツの話などして脱線しているように思うかも知れないけれども、「電力自由化」や「発送電分離」の行先は決して薔薇色ではないというのが現実問題としてあるということだ。「電力自由化」「発送電分離」の功罪を考えるには、「再生可能エネルギーの普及」「地球温暖化ガス対策の必要性」「シェールガスの利用拡大」「国内の原子力発電設備への公衆受容性の低下」などの動き続ける他の要因も考慮する必要があるし、さらに「発送電分離」の具体的形態については欧州でもまだ議論が続いていて、何気に「発送電一括・地域分割」、つまり現在の日本の発電会社の形態が「受電者の視点に立てば悪い選択ではない」という考えは故有って今でも完全に否定されていないという点も指摘しておこう。

 続きますデス。