2013/06/09

「宇宙戦艦ヤマト2199」Vol.5でましたね。:補足の補足

 「宇宙戦艦ヤマト2199」の出来についてネガティブな態度を取ると、ごくたまに「オリジナル原理主義者」なるレッテルをすぐ貼る人がいる。実に困ったものだ。

 私は少なくとも「オリジナル原理主義者」ではないし、そういう態度に出る人に限って「宇宙戦艦ヤマト2199」の良さや好きなところを「自分の言葉」では語ってくれない。引用を用いて権威主義的な態度に出てくる場合もある。「オリジナル原理主義」なんて曖昧な言葉を使うのは独裁政権のスローガンを鵜呑みにするようなもので、思考停止を正当化する誤魔化しにしか思えない。「オリジナル原理主義者」と「そうでない者」との二分法、相対化は分かり易さにおいては究極的なのだが、ほぼ例外なく間違いであるため、それを選択的に用いる場合は確信犯でない限り嘲笑の対象にしかならない。

 「宇宙戦艦ヤマト2199」の出来については、ちゃんと追っかけてる人でも結構もやもやしてるんじゃないかなぁ。私は最初っから最後まで見届ける覚悟だから、声無き途中脱落者の思いの一部なりとも言葉にして代弁できれば本望なのだ。

 敢えて私の立場を表明すれば「物語至上主義」。ヤマトのファンでもアニメ好きでもないから視点はかなり客観的なつもりだし、作品の好き嫌いで言えば「宇宙戦艦ヤマト2199」は好きなのである、個人的にはイマイチ面白くないとか光るところもトンと見かけないとか思いは複雑なのだが。「好き嫌い」、「良し悪し」、「好みとかツボ」はそれぞれ別次元の話であり、私の中ではこれらは完全に切り離されている。

 私の視点は、全ての設定や考証は「一貫性のある物語性の獲得」の観点から選択されるべきであり、逆に影響がないなら別の観点からの選択で良いということにすぎない。以前に「三式弾」への引っかかりについて触れたことがあったけど、これは上げ足取りのつもりは全く無く、作品タイトルにも冠されている西暦2199年との整合性があまりに取りにくいからだ。同様の観点から、「コスモゼロ」という呼称を単なるペットネーム(宇宙零戦)とするのか、まさに零年(2200年)採用の機体故とするのかは、作り手側の態度や立ち位置を考察する上での重要な手掛かりなのである。

 「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」は基本的に誉めまくるけど、他の映画やTVシリーズにはヤマトであろうが苦言を呈せざるを得ない。オリジナルTVシリーズは、「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」を成立させるためのプロローグに過ぎなかったのではとすら思うぐらいだ。

 私の意見は、「一貫性のある物語の構築」という「一種の知的作業の完成度」という尺度で較べた場合、「宇宙戦艦ヤマト2199」はオリジナルの「宇宙戦艦ヤマト」やヤマト以外の他の作品と較べても低い部類に入りませんか、ということだ。ちなみに、私は「駄作」という表現はよっぽどのことがない限り使わない。自分の中に「駄作」の明確な定義が無いからだ。まぁ「金返せ」「時間返せ」と言わずにいられない場合は、個人的な尺度では「駄作」ということになるのだろう。

 プロフェッショナル「の」仕事というのは基本的に結果の世界だ。私はプロフェッショナル「な」仕事と呼べる結果を極めて尊ぶことを基本としているだけで、「全てのプロフェッショナル『の』仕事」が「プロフェッショナル『な』仕事」とはなっていないのではないか、という極個人的な問題提起を出発点としている。

 じゃ、近いところで高評価のTVアニメとかあるの?と問われれば…「天元突破グレンラガン」かなぁ。最終話の最後にふらっと出てくるオッサンのセリフの重みとその重み自体をひらりとかわす距離感の取り方ってのは、第一話から積み重ねてきた物語があってこそ合点がいくし、説得力を持つことになるんじゃないかなぁ。あ、全然最近の作品じゃないですね。

0 件のコメント:

コメントを投稿